1話 逃避
「おかえり、兄さん」
日が沈みかけた頃。部活を終えてアパートに帰ってきた俺を出迎えてくれたのは、一つ下の妹のさつきだった。
高校の制服にエプロンを身に着けている彼女は、つい先ほどまで夕食の準備をしていたようだった。
「ただいま、さつき。父さんは?」
「まだ帰ってきてない。今日も残業だと思う」
少し困ったような顔を見せてさつきは答えた。
びゅお、と玄関から秋風が吹き込んで、やや癖のあるさつきの黒髪が揺れる。十月も終わりに近づくこの季節は肌寒い。後ろ手でドアを閉めた。
「ご飯できてるよ。一緒に食べよ」
短めに切りそろえた髪を軽く整えながらさつきは言った。
ああ、と短く答えて狭い玄関で靴を脱ぐ。居間からは食欲をそそる匂いがしている。今晩はシチューのようだ。
「うん、今日もおいしい。さすがだな」
ぱく、と口に含んだシチューを味わいながら感想を口にする。
「ん、ありがと」
テーブルの向かいで夕食を共にしているさつきは少しだけ微笑んだ。狭い居間の食卓には俺たち二人だけ。
二年前に母さんが亡くなってからというもの、この光景が日常となった。
「いつも作ってもらってばっかりで悪いな。たまには俺が作ろうか?」
「いいよ、大丈夫。私、兄さんに料理作るの好きだから。──それに、兄さんより私が作ったほうが美味しいでしょ?」
「……う。そりゃそうだけどさ」
すました声でなかなか厳しいことを言われた。
だがその言い分はもっともだ。以前、さつきの誕生日にローストビーフを作ってやろうとしたが、火を通しすぎてひどい結果になったことがある。……さつきは食べてくれたが。
「まあ、気持ちは嬉しいよ。じゃあ私が風邪でもひいた時にはお願い」
楽しむような目でさつきはそう言った。俺は任せろ、となけなしの兄としての威厳を保つのが精一杯だった。
さつきはそんな俺にくす、と笑って再びシチューを口に運び始めた。
なんていうか、遊ばれてる気がする。
「そういえばこの前の中間テストどうだったんだ? 結果返ってきたんだろ?」
「うん。見る?」
ああ、とうなずくとさつきは傍らに置いてあったカバンから結果の紙を出して、ほら、と差し出してきた。
受け取って目を通す。
「うわ。また一位か。相変わらずバケモノじみてるな」
「そんなに言うほどじゃないでしょ。私たちの高校、そんなにレベル高くないんだし」
低くもないが。どっちにしろ入学以来ずっと一位に君臨し続けるのは並大抵のことではない。しかも本人にはその意識はないというのだから尚更だ。
「それで、兄さんは?」
「え? なにが?」
「中間テスト。私の結果見せたんだから兄さんのも見せるのが普通でしょ?」
にやにやと意地悪そうな笑みを浮かべてさつきは言った。
「別に俺のはいいだろ。見てもつまんないぞ」
「テスト結果なんてもともと面白いものでもないでしょ。それともなに、もしかして見せられないくらいヒドイとか」
ふふ、と煽ってくるさつき。
「さすがにそこまで言われるほどひどくもないぞ」
さつきの態度についムキになってしまって、俺も自分のを差し出した。
「ふーん。……お、この前の期末テストより順位上がってるね」
「それでもお前には敵わないんだが」
「一年と二年じゃ話が違うでしょ」
いや、たぶんさつきは二年生になってもトップを維持し続ける気がする。
「はあ、兄貴なのに情けないな」
「そんなことないよ。私にできなくて兄さんにはできることなんてたくさんあるんだから」
はい、と結果用紙を俺に返しながらさつきは優しくそう言った。
そういう気遣いができるところとか、本当よくできた妹だと思う。これじゃどっちが年上かわからない。
そんな会話をしながら食事も終わるころ。玄関からドアが開く音が聞こえてきた。父さんが帰ってきたようだ。
「ただいまー……」
ふう、と一日の疲れが込められたため息とともに、よれたスーツ姿の父さんが顔を出した。
「おかえり、父さん。ご飯できてるけど食べる?」
椅子を立ち、さつきは父さんのカバンを受け取りながら言った。
「あー……いや、悪いがいらん。それよりこれもらえるか」
くい、と盃を傾けるしぐさを見せながら答える父さん。さつきは淡々と慣れた様子で冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出した。
「はい。飲みすぎないでね」
「わかってるよ」
聞く気のない返事をして父さんはビールを受け取ると、そのまま寝室へ歩いて行った。
その父さんの後姿を見送りながらふと思ったことを口にする。
「さつきお前さ、なんか母さんみたいになってきたな」
「なにそれ」
エプロンを脱ぎながらさつきは苦笑交じりに答えた。
「いやなんとなくさ、料理だって毎日作ってもらってるし、さっきお前が父さんにビール渡したりしてるとこなんかもあんまり違和感感じなくなってきたしさ」
「それって私が父さんと夫婦みたいにでも見えるの?」
「そうじゃない。大人っぽくなったってことだよ」
「そうかな。……まあ、兄さんにもそう見えるならそうか」
なぜか、少しだけさつきは表情に陰りを見せた気がした。もしかして歳とって見えると聞こえてしまったのだろうか。
「食器、片づけるね」
「あ、悪い」
だが次の瞬間にはいつものさつきに戻っていた。さっきのは気のせいだったのかもしれない。
だがまあ、今後はもう少し発言に気を付けてみよう。さつきも年頃の女の子なんだし。
「たまにはさ」
「ん?」
ポケットからスマホを取り出そうとしたとき、不意に洗い物をしているさつきが呟いた。
「昔みたいに一緒にお風呂でも入る?」
「は?」
あまりに唐突なさつきの言葉に間抜けな声を出してしまった。
「だから、お風呂。一緒にどう?」
「いや、なんでそうなるんだよ」
「大人になったんでしょ? 私。だったらほら、確かめてみない?」
さつきは愉しそうに目を細めて言った。そして濡れた手を胸元に手をかけて、ブラウスのボタンをぷち、と外した。
「ほら、こういうトコとか」
そのまま軽くかがんで、くい、とブラウスを引っ張る。すると、豊かな二つのふくらみが作る谷間が俺の目にさらされる。
「な、なにやってんだよさつき。早く隠せそれ」
慌てて目を逸らしながら口にする。
「なに? 照れてるの、兄さん?」
素直に姿勢と制服をただしながらさつきはくすくすと可笑しそうに笑っている。
「私が大人かどうかはともかく、兄さんはまだ子供だね」
「ぐ……」
言い返せない。妹相手のくせにあれぐらいで動揺してしまったのは情けない。
おまけに少しドキドキしてるし。
だがしかし、さつきは確かに成長して大人らしくなった。今みたいに俺を軽くからかうくらいには。
昔は怖がりだったさつきが立派になってくれるのは素直に嬉しい。嬉しいが、なんだがさつきだけが先に進んでいっているみたいで俺は少し寂しいとも思ってしまうのだった。
「せんぱーい。まだですかぁ?」
キーボードを打ち込んでいる俺の向かい側から気怠そうな声が聞こえてきた。パソコンの画面から目を話してそちらを見ると、俺のと向かい合わせにした机に突っ伏したままこちらを見ている目線があった。
「なんだよ黒木。書き始めたのついこの前だぞ。そんな早く終わるもんか」
「知らないですよそんなの。あたしは暇なんですぅ」
肩まで伸ばした茶髪をくるくるといじりながら、後輩の黒木冬香が俺にジトっとした目を向けてくる。俺は半ばあきれながら傍らに置いてある本を一冊とって差し出した。
「ほら。これ。文芸部員なんだから俺に文句垂れるより部員らしいことしててくれ」
「それもう読みましたよ。だから先輩の新作待ってるんじゃないんですか。それにどうせあたしら以外部員来てないんですしぃー、別にサボってたっていいじゃないですかぁ」
まあ確かにその通りではある。やや年季が入ったこの部室にいるのは俺と黒木の二人だけだ。
名簿上の部員自体はいるのだが、ほぼ幽霊部員と化しているのが現状だ。おかげで今日のように彼女と二人きりというのは珍しいことではない。
「ってか暇なんだったらお前もサボってどっか遊びに行けばいいじゃないか。言い寄ってくる奴とか結構多いんだろ?」
黒木は二年である俺のところにも噂が流れてくるくらい人気がある生徒だ。だがそれもそうだろう、黒木はあまり見る目のない俺から見ても可愛らしい容姿をしている。
ゆるいウェーブの淡く輝く茶髪と、大きめの瞳が特徴的な整った顔立ち。スタイルもよく、胸に関しては「あたしEカップあるんですよ、先輩」と本人から言われたことがあるが、確かにその通り目を引くふくらみがある。
「あたしあーいう人たちキョーミないんですよねー。最近はメンドくて彼氏いるからって断ってるのにしつこい人もいるし。だからここで本でも読んでたほうが楽しいんですよ」
はあ、と頬杖をついて茜色に染まり始めた窓の外を見ながら黒木はそうこぼした。どうやら本当にうんざりしているらしい。
「んじゃあもっとあからさまな態度とればいいだろ。お前、ここにいるときはかったるそうな癖に普段はいい顔ばっかりしてるじゃないか」
「わかってないですねー、先輩。学校って場所で生活していく以上、それなりの地位を守っとかないといけないんですよ。そのためには多少メンドーでもいい顔してないとなんです」
「でも俺にはいい顔してないだろ」
「先輩はいーんですよ。先輩にどう思われようとどーでもいいんで」
そうですか、と適当に返事をする。
「ってか先輩口より手を動かしてください。先輩の期待の新作、待ってるんですからぁ」
ふふ、と小馬鹿にするような口ぶりで黒木は言ってくる。
「何が『期待の新作』だ。お前毎回毎回俺が書いたやつ文句しか言ってこないだろ」
「むー。文句とはひどい言いようですね。ケンセツテキな批判っていうんですぅー。大体、穴だらけな作品ばっかり書いてくる先輩のせいじゃないですか」
なかなかぐさりと刺さることを言ってくるな、この後輩は。俺に対して素の部分を出すのは悪いことではないが、もうちょっと気を遣うってことを覚えてほしい。
「っていうか、先輩はなんで小説書いてるんです? なーんか不思議なんですよねぇ、先輩ってそういうキャラに見えないんで」
「そんなの聞いてどうするんだよ」
「どうもしませんよ。ただの興味です」
いいじゃないですか、と詰め寄ってくる黒木。興味があるというのは本当らしい。
「まあ、いいけど。……母さんの影響だよ。俺の母さん、一応小説家だったから」
「えっ、先輩って小説家の血を引いてるんですか!? とてもそうは見えませんでした」
「いやお前……さすがにその言い方はちょっと傷つくぞ」
そんなに俺が書くものはひどいのだろうか。
「あはは、ジョーダンですって。……で、先輩のお母さんってなんて名前で活動してるんですか? もしかしたらあたし知ってるかもしれないです」
今日はさぼっているが、黒木は読書家だ。それなりに作家や作品の知識は広い。
「『水上麒麟』って名前で活動してた。黒木、知ってるか?」
「知ってます! あたし、水上さんの『氷上の城』好きなんですよ!」
「そ、そうなんだ。それはなんというか、ありがたいな」
ちょっと黒木の反応は予想外だった。母親のこととはいえ、そう言ってもらえると俺もなかなか嬉しい。
「へぇー、先輩のお母さんが水上さんだったとは驚きです。……あ、でも最近全然作品出してないですよね。いま新作を執筆中なんですか?」
「あー……えっと、それは……」
言いよどむ。だが変に隠すことでもない。
「亡くなった。二年前に事故で」
「えっ……あ、そ、そうだったんですか。その、ごめんなさい。あたしちょっと無神経でした」
珍しく黒木は申し訳なさそうな顔を見せた。
「いいよ、気にしないでくれ。悪気があったわけじゃないんだろ?」
「はい、まあ、それはそうですけど……」
なんとなく気まずい雰囲気になってしまった。なんと声をかけようかと考えようとしたとき、部室のドアが開いた。
「二人とも、ちょっといい?」
ドアを開けたのは顧問の教師だった。
「ちょっと個人的な用事ができてしまって帰らなければいけないの。早めになるけど、今日の部活は終わりにしてもらってもいいかしら?」
ごめんなさいね、と軽く頭を下げられる。
「はい、いいですよ。黒木も問題ないよな?」
「は、はい。だいじょぶです」
「悪いわね。それじゃあ鍵渡すから、戸締りお願いね」
そう言って俺に部室の鍵を渡すと、顧問は足早に部室を後にした。
それを見送った後、俺たちも帰り支度をして帰路についた。黒木とは微妙な空気のままになってしまったが、次に会うときはいつも通りになっているだろう。
アパートに帰ってきた。時刻は午後五時過ぎ。いつもより一時間ほど早い帰宅だ。
さつきはまだ夕食の準備にはギリギリ取り掛かっていないくらいだろうか。父さんは多分、まだ帰ってきてないだろう。
せっかく早く帰ってきたのだから、今日の夕飯はさつきと一緒に作ろうか。そんなことを頭に浮かべながら、鍵を開けて家に入った。
「ただいまー」
しん、と静かな屋内に俺の声だけが響く。いつもであれば「おかえり」とさつきが出迎えてくれるはずだが、少し待っても顔を出してこない。
まあそういうこともあるか、と思い靴を脱いで上がる。
居間の明かりは点いていた。だがさつきの姿はない。
「さつきー?」
呼びかけてみるが返事はない。が、代わりにがたん、という音が聞こえた。それは父さんの部屋からだった。
珍しく父さんがもう帰ってきているのだろうか。部屋に近づくと、確かに中から軋むような物音がする。
仕事で疲れているかもしれないが、一応声くらいはかけておこう。そう考えて、父の部屋の引き戸を開けた。
「ただいま、父さ──」
言葉が途切れた。いや、絶句した。
俺の予想通り、中に父さんはいた。さらに、いないと思っていたさつきも一緒だった。
さつきは父さんのベッドの上に横たわり、ぼうっとした瞳で天井を見上げている。そして父さんはそんなさつきの上に覆いかぶさって腰を振っていた。
「……な、っ──え?」
うまく声が出せない。あまりにその状況が理解不能だったから。
父さんが血のつながった娘であるさつきのことを犯しているなんて。さつきの目は父の姿なんて映していない。この行為がさつきの意志でないことは明らかだ。
だというのに父さんは乱れた制服の上からさつきの身体をまさぐりながら、息を切らしてさつきを貪っている。
「な、なに、やってるんだよ……父さん」
やっとまともな言葉を発せられた。だがそれに反応したのはさつきのほうだった。といっても、ただ上を見ていた目線がこちらに向いた程度だったが。
だが父さんは変わらずさつきの身体しか見ていない。
「おい! さつきになにやってんだ、父さん!」
その態度に腹が立って、思わず声を荒らげる。それでやっと父さんは俺に反応した。
「なんだ、浩一か。見てわからないのか。さつきとセックスしてるんだ」
俺には目もくれず、父さんはごく普通の口調で答えた。そこにまざる荒い吐息が俺をひどく不快にさせる。
「んなことはわかってるよ! なんでそんなことしてるんだって聞いてんだよ!」
汗がにじんでいる肩に手をかけて問い詰める。思わず殴りかかるところだったがそれは抑えた。
だが父さんはそんな俺の手を邪魔だ、とばかりに振り払った。
「うるさいぞ浩一。自分の部屋でおとなしくしてなさい」
この状況の中で異様なほど冷静な父さんの言葉に軽い恐怖すら覚える。明らかにいつもと様子が違う。
それに気圧されてしまって、思わず父さんから目を反らした。そして父さんから外れた目線は、今も身体を好き放題されているさつきと偶然合った。
その瞬間だった。閉じられていたさつきの口が動いた。
『たすけて』
声は聞こえなかった。出さなかったか、ごく小さいものだったか。
だが確かにさつきは俺に助けを求めた。だったら俺は突っ立ってる場合じゃない。
「とりあえずさつきから離れろよ!」
父さんに掴みかかってさつきから引き剝がす。が、所詮俺程度の力じゃ大人である父さんの体は動かない。
「親のいうことを聞け!」
父さんは俺の行動に突然怒鳴ると、俺の頬を思い切り殴り飛ばした。加減なんか一切ないそれに、俺の体は壁に叩きつけられた。
「っ! んなことしてる親の言うことなんか聞くわけないだろ!」
頬と背中がじんじんと痛むが、そんなことにかまってる場合じゃない。俺もお返しに父さんの顔面を力任せに殴りつけた。
ごっ、と鈍い音と、拳への痛み。だがそれで父さんはやっとさつきから離れてくれた。
「子供のくせに親に歯向かうんじゃない!」
だがさつきから離れた父さんは、今度は俺に近寄って再び拳をふるった。ごつん、と大きな衝撃とともに床に倒される。
視界がグラグラする。父さんはそんな俺に馬乗りになると、二度、三度と俺の顔を殴りつけてきた。
「だいたいな! 誰がお前らに飯食わせてやってると思ってるんだ! この!」
下から見上げた父さんの顔は血管が浮き出るほど怒りに満ちていて、本気で俺に憎しみを向けているようだった。このままじゃまずいと思い、その体をどかそうとするが当然そんなのは無駄な抵抗だ。
だが父さんは抵抗のできない俺に何度も何度も、狂ったように拳を叩きつけてくる。口内でどこか切れたのか、ぶし、と口から血を吐き出してしまう。
「お前まで俺の邪魔をするっていうならお前なんか殺してやる!」
俺を殴る腕に一層力がこもる。痛みで意識も朦朧としてきた。
父さんの言葉通り、このままじゃ本当に殺される。
「や、やめ……とうさ、んっ……!」
俺が必死に声を出しても、父さんはまるで聞く耳を持たない。むしろ、そんな俺の様子すら気に入らないのか、さらに罵声を浴びせてくる始末だ。
無意識に床に手を伸ばす。この状況を何とかできるものを必死に探す。
こつ、と指先に何か当たる。それがなんであるかなんて確認する暇なんてない。
俺はそれを握ると、残った力をありったけこめて父さんの頭に叩きつけた。
「グッ」
がしゃん、とガラスが割れる音と一緒に、父さんのものらしきうめき声が耳に届く。
その少しあとに、どさ、と全身に鉛のような重みがのしかかってきた。それが父さんの体であることに気づいたのは少ししてからだった。
「え……とうさん……?」
自分の右手を見ると、割れた血まみれの一升瓶が握られていた。それが意味するところは混乱している俺の頭でも理解できた。
ずり、と何とか父さんの身体の下から抜け出す。うつ伏せで倒れているそれはぴくりとも動かず、頭から流れ出た赤い液体がフローリングに広がっていく。
「兄さん」
俺がその状況に呆然としていると、背後からさつきの声が聞こえた。振り向くと、俺を見つめるさつきの姿があった。
その表情と声色に驚きなどといったものはない。ただ俺を呼んだだけ。
「さつ、き……」
がしゃん、と手に持っていた一升瓶が床に落ちる。真っ白だった頭が少しだけ覚醒する。
「さつき、逃げるぞ」
だが俺がとった行動はさつきの手を取ってこの場から逃げ出すといったものだった。もっとよい選択はあっただろう。だが今は、とにかくさつきをこの場所から連れ出すことしか考えられなかった。
まだ人通りの多い夜の街並みを歩く。時刻は午後六時を回っている。コンビニの灯りや車のヘッドライトがやけに眩しかった。
「兄さん。ねぇ」
俺に手を引かれて歩いているだけだったさつきが不意に俺に話しかけてきた。
「なんだ、さつき」
足を止めて振り返る。
「聞かないの? 私がなんでああいうことしてたのかって」
さつきは静かな口調で問いかけてくる。まっすぐに俺を見つめて。
瞬間、父さんの部屋で行われていたあの光景がフラッシュバックした。吐き気を催しそうになるのをなんとかこらえて答える。
「……今はそういう場合じゃない。それよりこれからどうするかが先だ」
「ん。わかった。兄さんがそう思うなら私はそれに従うよ」
さつきはそう言うと、俺の手をぎゅ、と握り返してきた。
「それよりさつきは責めないのか。俺が、その、父さんを──」
「──雨」
「え?」
さつきは夜空を見上げて呟いた。それにならって俺も上へ目を向けると、額にぽつりと滴が落ちてきた。
俺がそれに気づくと、あっという間にざあざあと音を立てて降り始めた。
「うわっ。まず、降ってきた」
そういえば今朝の天気予報で今日の夜から明日の朝にかけて雨だと言っていた。このままじゃさつきが風邪をひいてしまう。
「兄さん。あそこ、入らない?」
さつきがぴっ、と指を指す。その方向を見ると、派手なネオンサインが目立つラブホテルが建っていた。
「いや、さつきそれは……」
まずいだろ、と言いかける。だが、お互いに制服姿でこのまま歩き続けていたら警察に声をかけられかねない。
「わかった。入ろう」
幸いポケットの中の財布には一泊する程度の持ち合わせはある。とりあえず落ち着いた場所で今後のことを考えるためにも、入るしかないだろう。
がちゃ、とバスルームの扉が開く音がしてそちらに目を向けると、バスローブを纏ったさつきが姿を現した。
「シャワー終わったよ、兄さん」
「ん。ああ、おかえり」
雨で濡れてしまったから、まずさつきにシャワーを浴びてもらった。さつきからは俺も浴びるように言われたが、そんな気分じゃなかった。
「兄さん、隣いいかな」
「ああ、うん。いいよ」
ん、とさつきは頷いて、俺の隣に腰かけた。
そうしてベッドの上で二人並んだまま、無言の時間が過ぎる。ラブホテルのベッドの上で二人きり、という状況のせい──なんて気楽な理由では当然ない。
さつきはこの状況や、俺がやったことをどう思ってるんだろうか。ちらりとさつきの顔に目をやる。
「ん? どうしたの? 兄さん」
「あ、いや……なんでもない」
さつきの表情や口調はいつもと変わらないように見える。さつきは人並みに笑顔を見せることはすれど、感情を強く表に出すことが少ない。いつからか、俺はさつきの考えていることが読めなくなってきていた。
「あのさ、さつき」
「なに? 兄さん」
「その、すまなかった」
がば、と頭を下げる。それはさつきへの謝罪ではなく、どちらかというと自分への言い訳に近かった。
「どしたの、兄さん。私、何も謝られるようなことされてないよ」
「そんなワケないだろ。俺は……父さんをこの手で殺したんだ。……それも、お前の目の前で」
雨で洗い流されたとしても、血で真っ赤に染まった自分の両手や頭から血を流す父さんの姿を鮮明に覚えている。今思い出しても吐きそうになるあんな光景を、他ならぬさつきに見せてしまったなんて。
「ああ、それなら私は平気だよ。──母さんの時のほうが酷かったから」
その言葉に、顔をあげてさつきを見る。さつきは寂しげな笑みを浮かべていた。
──母さんの時。二年前に母さんは交通事故で亡くなった。さつきはその時、母さんと一緒に買い物からの帰り道を歩いていたという。
そこへ居眠り運転のトラックが突っ込んできて、母さんはさつきをかばってそのトラックに轢かれた。即死だったと聞かされた。
「あの時はすごかったよ。母さんの体、元々どんな姿だったのかわかんないくらいになっててさ……。それに比べれば、父さんのはそれほどじゃないからさ」
「……そうか」
何と答えたらいいかわからず、力なくそう呟くしかできない。
さつきがそれほどショックを受けていないというのは本当のことだろう。母さんの一件以来、さつきは大抵のことじゃ驚かなくなった。今回の件でもそうだというのは意外ではあったが。
だから、俺に見せている微笑は強がりや平気なフリなどではないのだろう。だが、俺にはそれがひどく痛ましく見えた。
「うん。だからこの話は一旦ここで終わりにしよ? 兄さん、ひどい顔してる」
ぴと、とさつきの手が頬に触れる。そのままくい、とさつきの方に顔を向けられた。
「さつ、き」
さつきの顔が近い。濡れた髪と、みずみずしい肌。少し近づけばキスしてしまえそうな距離。
その顔には変わらず微笑みがある。だが、その瞳の向こうに不安そうな色が宿っていた。
「兄さんだけが重荷を背負うことはない。そばにいたのに何もしなかった私にだって責任はあるんだよ」
だから、そんな顔しないで、と。さつきは俺を優しく諭してくれた。
……俺は何をやってるんだ。こんな状況でさつきだって不安なはずなのに、兄貴のはずの俺が慰められている。
「それは違う。あんな状況でお前にどうにかしろだなんて酷だ。……父さんにあんなことされてたっていうのに」
言葉にしたことで想起される、あの光景。ベッドの上に横たわったさつきと、それを犯す父親の姿。
「……そもそもなんでお前は父さんにあんなこと、されてたんだ」
聞くべきか迷ったが、兄としてそれは知っておかなければならないことだ。
さつきは俺の問いかけに少しだけ視線を床にそらして言った。
「──父さんね、会社クビになっちゃったんだって。それできっと、少し気が動転しちゃったっていうか、糸がぷつん、て切れちゃったのかな。帰ってきてそのまま、私のこと抱いたの」
「……そうか。それで、父さんおかしかったのか」
あの時の父さんの様子は普通じゃなかった。変に落ち着いてたり、急に異常なほど怒り出したり。
だけど、だからといってさつきの意思を無視して抱くなんて間違っている。
「さつきは抵抗したんだろ。なのに、父さんはお前のこと犯したのか」
「ううん。私は別に抵抗しなかったよ。……あ、でも兄さんが帰ってくるかもしれないからやめたほうがいいよ、とは言ったけど」
「──え?」
今、さつきはなんて言った。
「待て。さつき、それはなんでだ」
「え? 前に父さんから『兄さんには秘密にしろ』って言われてたから──」
「そうじゃない」
胸がざわざわする。さっきからさつきの態度はどこかおかしい。
そんな言い方、まるで──
「なんで抵抗しなかったんだ。父親──いや、望まない相手から突然そんなことされたら、普通受け入れられないだろ」
聞きたくない。だけど聞かなくてはいけなくて、俺はさつきにそう問いかけた。その先にある答えをなんとなく確信しながら。
「──だって、父さんには前からされてたから」
「────」
頭が真っ白になる。途中からそうなのではないかとは思っていた。だけど、いざさつきの口からそれを聞いてしまうと、何も考えられなくなった。
前からされてた、と。ごく自然な口調で言うさつきが俺はどこか恐ろしかった。まるで、俺の知っているさつきじゃないみたいな。
「……兄さん?」
無言になった俺を心配したのか、さつきが俺の顔を覗き込んでいる。
「いつからだ」
「え?」
「いつから父さんにそんなことされてたんだ」
その目線から目をそらしながら聞き返す。さつきの顔が直視できなかった。
「え……っと、母さんが亡くなってからだから、二年前くらいかな」
ぎり、と暴れだしそうになる自分を噛み殺す。
その頃さつきは中学二年生だ。そんな、年端もいかない頃から父さんに──。
「う──っ……!」
こみあげてきた吐き気を口を抑えてなんとかこらえる。
信じられなかった。俺が知らないところで、さつきがそんな目に遭っていたことが許せなかった。
「兄さん! 大丈夫!?」
さつきが心配して俺の肩に手を添える。
「……いや、こんなの平気だ」
さつきが今まで経験していたことに比べれば、こんなのなんてことない。
「父さんは、どうしてさつきにそんなことしたんだ。ただお前の体が欲しかっただけか?」
できるだけ感情を抑えて問うた俺に、さつきは違うよ、と首を振った。
「父さん、母さんが亡くなってからすごく沈み込んじゃっててさ、私が慰めてあげてたら『忘れさせてくれ』って言われて──。私はその意味がよくわからなかったけど、父さんが楽になるならって思って『いいよ』って答えたら、押し倒されて──」
さつきの声色は、恐ろしいくらい落ち着いている。辛そうでも、悲しそうでもない。新聞記事のように、ただ起きた事柄を俺に伝えているだけだ。
「それからも時々求められた。兄さんにも秘密って言われてたから、家に誰もいない時だけ。父さんは──」
「もういい」
話を遮った。とても聞いていられる話じゃない。
確かに父さんはあの頃は不安定だった。だけどそのうち前ほどじゃないけど元気になった。だから俺も問題ないと能天気に考えていた。
だけどそれがさつきの体を抱くことで保っていたなんて、吐き気がするほど許せなかった。
「あの、兄さん」
さつきの手が、膝の上の俺の手にそっと触れた。俺は怒りでその拳をぎりぎりと握りしめていたことに、その時気づいた。
「やっぱり、すごくいけないことだったのかな、私と父さんがしてたことって」
その問いに、思わずさつきの顔を見た。不安そうに目を曇らせて俺を見ている。
その様子を見てやっと気がついた。さつきは本当にわかっていない。父さんがやったことがどれほどのことだったのか。
「ああ。いけないことだ。……父さんはそれを教えなかったのか」
「えっと、『他の人に言っちゃだめ』っていうことだけ。その、私も高校生になって色々知って、いけないこと、っていう知識は知ったけど──兄さんがそんなに怒るくらいだなんて、思ってなかった。ごめんなさい、兄さん……」
さつきは目を伏せて俺に謝罪の言葉を口にした。
「何言ってるんだ。さつきが謝ることなんてない。そんな当たり前のこと、親である父さんが何より守らないといけないことなのに……なのに、父さんがさつきにそんなことするなんて間違ってる」
謝るのは父さんのほうだ、と半ば憎しみの混じった声で言った。そこには、気づいてやれなかった自分への怒りも混ざっていた。
「……でも、兄さん。父さんのこと、そこまで責めないであげて。父さんもね、すごく可哀そうな人だったんだよ」
寂しそうに、取り繕うような笑みを浮かべてさつきは言った。
可哀そうな人。確かに、さつきから見ればそうだったのかもしれない。そうすることでしか自分を保てなかったというなら、少しは同情の余地はあるのかもしれないと、そう思った。
「……そうか。さつきがそう言うなら、そうなのかもしれないな」
無理矢理自分を納得させるように、そう答えた。俺もいい加減精神が疲弊してきていた。
「…………」
重苦しくなってしまった空気。お互いに何と言ったらいいのかわからなかった。
「シャワー。浴びてくるよ」
俺はそう言ってベッドから腰をあげた。このままじゃ俺もさつきも無駄に疲れてしまう。
さつきはそんな俺に、うん、とだけ答えた。