好きだなんて言えない

「これからも今までどおりそばにいてくれたら嬉しいな」

 髪を揺らす秋風が心地いい夕暮れ時。川のせせらぎと遠くから電車の音が聞こえる河原で、七海先輩はそう言った。
 それを聞いたとき、私はどんな顔をしたのかわからない。ただ、「まだだめなんだ」と思ったのは確かだった。
 まだ言えない。七海先輩のように、好きとは言えないと。

「ええ。いますよ、これからも。今までと変わらないまま、先輩のそばに」

 だから私はそう答えるしかなかった。いつもと同じように、なんでもないような顔で。
 それを聞いた先輩は、「そっか」と小さく、だけど満足そうに笑った。

「好きだよ、侑」

 だらん、と下ろしていた私の右手を両手で握って、先輩はそう口にした。
 風になびくさらりとした黒髪と、宝石のような瞳。そして、満たされたように顔を綻ばせる七海先輩。
 今まではその顔に何も感じなかった。と、思う。だけど今はもう違った。

「そう、ですか」

 私は先輩の顔を見られなかった。ただ俯いて、小さくそう呟いた。
 前はたやすくその言葉をいなせていたのに。どうして今はこんなにも胸がかき乱されるのだろうか。
 そう考えたところで馬鹿らしくなった。その答えなんてとっくにわかっているのだから。


「はぁ……」

 家に帰ってきた私は、自室に直行してベッドに横になった。
 あの後、先輩とどんな会話をしてきたのかまるで覚えていない。ショックだった、のかもしれない。
 私はどこか期待していたのだ。先輩は以前と変わった。自分が自分でいることを肯定できるようになった。
 だから、先輩への私の気持ちが変わっても好きと言ってくれるんじゃないかと。でも、違った。

「私だって……」

 変わったのは七海先輩だけじゃない。私だって、変わるんだ。
 それを先輩が受け入れてくれるのかが、怖い。今の関係が壊れてしまうのが、怖くて怖くて仕方がないのだ。

「──痛い」

 ずき、と針で刺されたような小さな痛み。ごろん、と仰向けに体を転がして、胸に手を当てる。
 カーテンの隙間から差し込んでいた夕暮れの紅は、いつの間にか夜の暗闇に染まりかけていた。
 これがきっと、誰かを特別と感じる気持ちなんだと思う。憧憬の目で追っていた、あの気持ち。
 だけど、少女漫画やラブソングのようにキラキラしてはいない。だって、こんなにも胸が痛くて、締め付けられるのだから。

「ななみ、先輩……」

 いつかのことを反芻するように、唇に指を触れさせる。
 初めては踏切で。それから生徒会室で、体育倉庫で。そうして、私が今寝転がっているこのベッドでも。
 最初の頃は、心臓の鼓動がその速さを増すこともなかったのに。思い出すだけでドキドキするなんて。
 好き、と躊躇いもなく口にして、私の唇を奪ったヒトを思い浮かべる。羨ましい、と思う。
 私だって、同じようにしたい。自分の気持ちを口に出して、私からキスしたい。
 でも叶わない。そうしたら全部終わってしまうから。
 ──だったら、せめて。せめてもっと深く七海先輩と触れ合いたい。

「ん……っ」

 気が付けば、私の左手は自らの胸の膨らみに触れていた。ぴく、と少しだけ体が震える。だけど構わずに軽く指に力を入れてみる。
 ふにゅ、と柔らかい感触。別に特別大きくも小さくもない私の胸。……本当はもうちょっと欲しいけど。
 それを控えめに、だけれどやらしい手つきで揉んでやる。

「ぁ……」

 ぴり、と小さな電流のような刺激が走る。慣れない感覚。でも気持ちがいい。
 もう一度、と今度は少し強い力でやってみる。

「んっ……ゃ、あ──っ……!」

 急に大きさを増した快感に押し上げられるように声が漏れる。だけど、思ったより大きい声を出してしまった。
 もう片方の手で慌てて口を塞ぐ。そのまま一、二、三秒と固まって部屋の外に気配がないか探る。
 ……良かった。部屋の近くには誰もいないみたいだ。
 強張っていた体の緊張をほぐして、再びベッドに体を任せる。左手も変わらず胸に触れたまま。いや、掴んでるっていったほうが正しいのかな。
 それを今度は、下から持ち上げるように揉んでみた。そして、親指と人差し指で、ふくらみの頂点を軽く摘まんでやる。

「ん……ぁ、んっ──」

 きゅん、と体の奥のほうから快感が昇ってくるのがわかった。制服も下着も当然身に着けたままなのに、刺激が強い。
 どうしてかな。別に普通に自分の胸を触ったくらいじゃ大して気持ちよくもないはずなのに。

「せん、ぱい……」

 その疑問の答えは、私の頭より早く唇が教えてくれた。瞬間、あの人の顔が頭の中を埋め尽くした。
 生徒会長として凛とした振る舞いを見せる姿。私の前でだけ見せてくれる甘えた顔。──そして、深く唇で触れ合った時の熱を孕んだ表情。
 そんな顔で求めてくれたら、私はどうなってしまうんだろう。

「んっ……ぁ、あン……は、ぁ……っ」

 そう考えたら、もう私の手は止まってはくれなかった。誰かに操られるみたいに、ごそごそと自分の体を弄び始める。
 両手で二つの丘を鷲掴みにして、制服が乱れるのも構わず揉みしだく。そうやって自分の乳房のカタチが歪められるたび、びくびくと小刻みに体が震えてしまう。

「あ、ぅんっ……っ、は、ン……っ、ななみ、先輩……」

 もし。もし先輩が私に覆いかぶさって私を好きにしていたら、先輩はどんな顔をするのかな。どんな表情で私を見つめて、どんな手つきで私の体を触ってくれるんだろう。
 熱にうなされたような顔をして、だけど真っすぐに私の目を見つめてくれるのかな。でも私の胸を愛撫する両手は、興奮が抑えきれてなくて少し乱雑な感じがあるかも。
 そんな妄想を頭の中で繰り広げる。そして、その手つきを真似るように自分の両手を動かす。

「ん、んぁ……っ、ァん、──っ、は、あっ……きもち、い……」

 幸せで淫らな妄想と体から溢れ出る快感で、頭の中がぼーっとする。はぁはぁとはしたない吐息を漏らしながら、自分の体を慰め続ける。
 気持ちいいで身も心も染まって、だけどもっと欲しくなっていく。
 きっと七海先輩も服の上からまさぐっているだけじゃすぐ足りなくなるよね。あの人結構大胆だから、さりげなく私の腰に手を回して、するすると少しずつ制服をたくし上げてくるかも。
 私の体はその妄想をトレースして、邪魔な制服を脱がしていく。はやる気持ちを抑えようともせず、乱雑な手つきで。

「は、ぁ……っ、先輩……も、っと……」

 そうして脱いだ制服を床に投げ捨てて、あと残りは下着だけ。私の呼吸で揺れる膨らみを守るそれを、ぐい、と無理やり上にひっぱりあげる。
 すると、ふるん、と束縛から解放された乳房が顔を見せた。それを躊躇いなく鷲掴みにした。

「んあっ……あ、んぁ、はっ……ァ、んっ……せん、ぱい──っ」

 素肌への刺激は私の想像を遥かに超えていた。ぎし、と軽くベッドが軋むほど体を跳ねさせて感じてしまった。
 だけどそんなものじゃ止まれない。むしろもっとエスカレートしていく。
 七海先輩だってきっと、押し倒した状態で私の裸を前にしたらもっと興奮してくれるよね。手で愛撫するだけじゃ足りなくて、唇で愛してくれたりとか。
 二人で口腔の熱を交換し合ったあの唇と舌で、たくさん私の体を愛撫してくれるかもしれない。そうしたらきっと、体を駆け巡る快感なんて今の比じゃないだろう。

「は、んぁ……っ、あっ……先輩、もっと……あっ、ぁ……ぅ、きもち、い……っ、あっ、んぁ……とーこ、先輩──」

 必死に押し殺しているつもりなのに、滑り落ちるようにはしたない声が漏れてしまう。七海先輩が聞いていたらどう思うのかな。
 かわいい、とか言ってくれるのかな。……いや、えろいとか言われそう。
 でもなんだっていい。先輩が私だけを見て、触れてくれるのなら。
 瞼を落として、その情景を思い描く。真っ暗な視界に、映画を映し出すように。
 いつもより少し呼吸を荒くして、私を好きにするあの人。繊細で優しく、けれど淫らな手つきで、耳も、首筋も、胸も、全て愛撫される。

「んっ、あ、はぁ……っ、せん、ぱい……は、ンっ──先輩、ぁん、せんぱい……っ、もっと、シて……っ」

 だけれど、いくら都合のいい妄想をしても物足りない。それはきっと、妄想は所詮妄想でしかないからだ。
 なら、もっと強い刺激ですべて塗りつぶしてしまえばいい。切なさも、もどかしさも、叶わないこの気持ちも。
 だから──

「侑ー? ごはんできたってー」

 でも、そこで私の手はぴたりと止められた。部屋の外からの、聞きなれたのんきな声で。
 一瞬完全に思考が白紙になり、ドアを見たまま固まってしまう。しばしそのままでいると、ノックとともに再び怜ちゃんの声が聞こえてきた。

「侑? 寝てるのー?」

 がば、と体を起こして、慌てて返事をする。

「お、起きてる起きてる! すぐ行くからちょっと待っててー!」

 私がそう返すと、「はーい」という返事の後に足音が遠ざかっていった。
 それが聞こえなくなったころ、私はぼすん、とベッドに体を倒した。

「はぁー……あっぶな」

 唐突な緊張から解放されて、一気に体の力が抜けていく。
 いつもみたいに勝手に入ってこられなくて本当によかった。私、いますごい格好だし。
 と、そこで気が付いた。私の右手が下腹部に触れていることに。そしてその指の先には、まだ下着に守られたままの場所。

「なに、やってんだろ……私」

 その右手を見て呟いた。じっとりと汗ばんでいる手指。それは、怜ちゃんに驚いたからなんかじゃないだろう。
 さっきまでの自分がやっていたことを思い出す。あの人のことを想いながら、自分の体を慰める、はしたない行為。

「……最低」

 自分にうんざりする。こんなことをしたところで何にもならないのに。
 妄想の中で勝手に先輩を汚すなんて、本当に最低。こんな私を七海先輩が知ったら、きっと失望するよね。
 私、おかしくなっちゃのかな。イヤになるくらい自分の行いを後悔しているのに、体はまだ昂っている。
 誰かを特別に──好きになるって、こういうことなのかな。だったら七海先輩も同じようなこと──

「そんなわけ、ないか」

 気怠い上半身を起こし、すっかり陽が落ちた窓の外に目を向けながら呟く。点々と輝く住宅街の明かりの向こうにいる、あの人の顔を浮かべながら。
 そこに映っているのは私の顔だけど。その口の端からは、僅かに涎が垂れていた。

「……服、着よ」

 それを片手で拭って、私はベッドから降りた。


「侑? ……侑ってば!」

「え?」

 翌日の放課後。ぼーっとしていたところで七海先輩の声で我に返った。

「どうしたの? 心ここに在らず、って感じだったけど」

「あ、え、えーっと……今日の授業、ちょっと難しくって考え事してました」

 適当に誤魔化す。だけど、昨日したことの罪悪感からか、先輩の顔を直視できない。
 先輩と二人の帰り道。快晴だった昨日とは違い、今日は厚い雲が夕陽を隠していた。

「ほんと? よかったら前みたいに教えようか?」

「んー……いえ、たまには自分の力でなんとかしますよ」

 私の答えに、七海先輩は「そう?」と笑った。そこにはちょっと残念そうな色がある。
 一緒に勉強したかったのかな。それは私も魅力的だと思うけど、今度の期末テストの時にとっておこう。

「あ、そうだ。今日侑のお店寄ってっていいかな。買いたい本があるんだけど」

「はあ。別に構いませんよ」

 ちょっと嬉しいと思う自分を見せないように承諾する。そんな私に先輩は「ありがと」と微笑んだ。

「買いたい本ってなんです?」

「役者さんが書いたエッセイ。この前劇団の人におすすめされたの」

 そうなんですか、と答えながら先輩の顔にちらりと目をやる。体の内側からうきうきがにじみ出ている、そんな顔をしていた。

「楽しそうですね」

「えっ?」

 私に言われて、はっとした顔を見せる先輩。そんな様子にくすりと思わず笑ってしまう。

「顔に出てましたよ。そんなに面白い本なんですか?」

「んー、それは読んでみないとわからないけど」

 歩みを進めたまま、先輩は手を顎に当てて少し考え込む仕草を見せた。

「演劇のこともっと知りたいの。技法とか心構えとか何だっていいから、いろんなことを知ってもっと上手くなりたい」

 そうして、顔を上げて先輩はそう口にした。真っすぐ前を見て、いつかの未来を想像するような声で。
 すがすがしいその表情にしばし目を奪われる。以前の先輩だったらきっと言わなかった言葉。それを聞けたのはとても嬉しいことだと思う。

「なれますよ。七海先輩だったらきっと立派な役者になれます」

「そうかな。まだまだ怒られてばっかりだけど」

「もう。先輩がそんなんでどうするんですか。できますって。私が保証します」

 ぱしぱし、と軽く先輩の背中を叩く。わ、と驚いた先輩が前によろめいた。

「ん……そっか。そこまで言われるのはちょっと照れるけど。でも、侑がそばにいてくれたらできる気がするよ」

 柔らかく表情を綻ばせて先輩は言った。迷いが見えない、曇りのない笑顔。

「さりげなく私も巻き込むんですか」

「えー? だって保証してくれるんでしょ?」

 ぶー、と今度は子供のようにすねる先輩。ころころと変わる表情がほんとに子供みたいで可笑しい。

「はいはいわかってますって。元々、先輩の気が済むまでそばにいるって決めてますし」

「ほんと? やった!」

 満面の笑みを浮かべて、先輩は喜びを表現する。その姿に、私も思わず頬が緩んだ。
 それは、先輩が嬉しそうにしているからっていうのももちろんある。喜んでくれて悪い気はしないからだ。
 でも、私がまだ先輩のそばにいられることに安心しているからでもある。

「侑」

 唐突に名前を呼ばれて、先輩の顔を見る。そこには変わらず微笑みがあるが、少しだけ真面目な顔をしていた。

「やっぱり侑は優しいね」

「……別に、普通ですよ」

 ちょっとだけ言葉が詰まったのはなんでだろう。
 「そっか」と呟いた先輩を一瞥して、私は目線を前に戻した。
 私はもう、前の私と同じじゃない。先輩のそばにいる理由も、今と昔じゃ変わってしまった。そのことに七海先輩はまだ気づいていない。
 だけどいつか、先輩がそれに気づいたら? 私は先輩のそばにいられなくなるのかな。
 そうしたら、私はどうなっちゃうのかな。
 遠くから湿っぽい匂いがする。空を見上げると、遠くの雲がどんよりと暗い顔をしている。もうすぐ降り出すかもしれない。


「侑、買えたよ」

 私が店の奥から戻ってくると、つい今しがたお会計を終えたであろう先輩が出迎えてくれた。私がお手洗いに行っている間に買い物を済ませる手際にちょっと感心する。

「お、良かったです。もしかしたら売り切れてるかもって心配だったんですよ」

 お目当ての本を私に見せながら、先輩は嬉しそうに笑っている。
 先輩が求めていたそれは、少し前に話題になった一冊だ。今はブームが去ったとはいえ、うちみたいな小さな書店だと売り切れたらそのままってことも多い。

「ラスト一冊だって。危なかったぁ」

 ほっとした顔を見せて、先輩は大事に鞄にその本をしまった。

「どうします? もうちょっと見てきます?」

「ううん。今日はもう大丈夫」

 「そうですか、それじゃあ」と口にしようとしたところで唇の動きを止めた。
 七海先輩は、帰ろうとするでもなく、私に何か言うでもなくその場で立ち止まっている。肩にかけた鞄を不自然にぎゅっと握って、目を泳がせている。

「先輩」

「えっ? あ、な、なに?」

 あからさまに動揺する七海先輩。しょうがないな、と思わずため息が漏れる。

「本、ちょっとうちで読んできます?」

 先輩は私の言葉に子供みたいに目を輝かせて、「うん!」と頷いた。


 先輩が私の部屋に来るのは久しぶりな気がする。最近まで文化祭の準備で忙しかったからだ。
 最後に来たのは夏休みだったかな。あの時は確か──甘えられたんだっけ。
 二階への階段を昇りながら、ちらりと後ろを歩く先輩を盗み見る。先輩はあの時から少し──いや、随分変わった。それは私の望んだことだから後悔なんてないけど。

「どうぞ」

「あ……お邪魔、します」

 ドアを開けて先輩を中に招き入れる。先輩は初めて入るみたいに緊張しているみたいだった。
 そのままベッドを背もたれにして腰を下したのを確認して、私は先輩に背を向けた。

「じゃあ私、お茶入れてきますね」

「あ、待って、侑!」

 どこか焦った様子の声で呼び止められる。振り向くと、先輩はちょっと照れたような様子で続けた。

「お茶は、いいよ」

「でも本読むんだったらあったほうが良くないですか?」

「いや、その……今は本読まない、から」

 私の視線から逃げるように目をそらしながら、先輩はたどたどしく口にした。

「そうですか?」

 あくまで冷静に答えて、私は廊下に向いていた足を部屋の中へ戻した。

「じゃあ、何するんです?」

「それは、その」

 もごもごと言いよどむ生徒会長さん。こういうところは相変わらずだ。
 私は、後ろ手でドアを閉めて先輩の前に座った。いつも通り、テーブルを間に挟んで向かい合う形。

「侑といたい。本は逃げないけど、侑はそうじゃないから」

「私だって逃げませんよ」

「そう、だけど。侑とこうやって二人でいられる時間はすぐに逃げちゃうもん」

 拗ねたような口調で七海先輩は言う。そんな先輩をちょっと可愛いと思う私がいる。

「はぁ……一応本読むって建前なんですから、ちょっとくらいその体裁は守ってくださいよ」

「だ、だってせっかく久しぶりに侑の部屋で二人きりなのに勿体ないじゃない」

 本当、この人はわがままだ。いつだってそう。勝手にファーストキス奪ったり、好きにも嫌いにもならないで欲しいなんて言ったり。
 だけど私もそれを受け入れてしまう。それはきっと、私がお人好しだからという理由だけではないんだと思う。

「わかりましたよ。それで、どうしたいんですか? 七海先輩」

 私がそう答えると、先輩はぱあ、と笑顔を咲かせた。

「じゃあ、こっち来て」

 先輩は一度床から腰を上げると、ベッドに腰かけた。そして、ここ、と自らの隣をぽんぽんと叩く。
 「はいはい」と答えながら、おとなしく従う。ぽす、と先輩と肩を並べてベッドに腰を下した。二人分の重さで、軽くベッドの軋む音がする。

「ゆーう」

 心の底から安心しきったような声で私の名を呼ばれる。なんですか、と返事をする前に、私の肩に心地よい重みが寄りかかってきた。
 視線をそちらへやると、待ち構えたいたように先輩と目が合った。くす、とその表情が和らぐ。

「ね、侑」

「はい。なんですか、先輩?」

 先輩の考えてることはなんとなくわかる。でもそれをこちらから言葉にするなんて野暮なことはしない。

「キス、したい」

「ええ。どうぞ」

 私がいつものようにそう答えると、先輩はそっと顔を寄せてきた。
 ふわ、と先輩の匂いに包まれる。特別匂いフェチというわけでもないけど、先輩の香りは好きだ。
 変な飾り気がなくて、心が安らぐ。でも今日はなぜだろうか。少し、ドキドキする。

「ん……」

 くぐもった音が漏れる。それが私と七海先輩のどちらのものか、なんていう疑問はどうだってよかった。
 唇に押し付けられる、自分以外の柔らかい感触。雪のように溶けてしまいそうなのに、心地の良い弾力もある。
 薄く目を開ければ、視界のすべてが七海先輩で満たされる。顔にかかる黒髪と長いまつげ、頑張って抑えている呼吸音。
 それらをこんな間近で感じている。だから、鼓動がこんなにうるさいのも仕方がないのかな。

「ん、ぅ……ゆう──ん、んっ……」

 いつの間にか、先輩の片腕が私の腰に回されていて、控えめに抱き寄せられる。私はそれに身を任せる。
 それどころか、私のほうからも先輩へ体を寄せた。きゅ、と幼子が母の手を握るようにそっと、先輩の制服を掴んで。
 先ほどよりほんの僅かに近づく私たちの距離。口づけも少しばかり深くなる。
 たったそれだけの変化だけど、先輩の感覚をより強く感じる。鼻腔を満たす先輩の匂いも濃くなった。それがまた私の心臓の動きを速める。
 今日の私──いや、昨日からかな。とにかく、私はちょっとおかしい。でもそれを元通りにすることはできなかった。
 だったらもう身を任せてしまえばいいのかもしれない。いつもいつも好きに求められているんだから、ちょっとくらい私から欲しがっても罰は当たらないよね。

「ん──侑っ……? ぁ、んむ、んっ……んんっ……!」

 私の唇を塞ぐ、二つの柔らかい紅。快感と幸福感で緩んだ先輩の唇の間に、する、と私の濡れた粘膜を滑り込ませた。
 驚いたようで、先輩の体がびく、と震えた。それと一緒に、唇の動きも止まる。
 その隙に、先輩の口腔で眠る舌を絡めとった。ぬちゅん、という濡れた感触。それに、容易く氷を溶かしてしまいそうな熱も伝わってきた。

「んっ、ぁ……っ、ゆう……っん、ンっ……む、んン……っ!」

 私から舌を入れられたのがよほど予想外だったのか、先輩は私にされるがままだ。唇も舌も力が抜けていて、好き放題にできてしまう。だけど、私の腰に回された先輩の手はさっきより強く私を抱き寄せてくる。
 もっとして。そう言われているようで、私の中で眠っている欲望が刺激される。
 一瞬、それに身を任せてしまいたいと思った。でもそうしたら、私はきっと止まれなくなる。昨晩の身勝手な行為のように。

「ん、は……っ、あ──侑……」

 だから、ブレーキが壊れてしまう前に唇を離した。
 私が目を開けると、ちょっと悲しそうな先輩の瞳があった。名残惜しかったのかな。それは私も同じだけど。
 でも、先輩はすぐに微笑みを見せた。

「ん……珍しいね。侑からべろ入れてくるなんて」

「いつもは先輩に好き勝手されてますから、そのお返しです」

 半分本当で、もう半分は偽り。だけど先輩は柔らかく頬を緩ませる。

「ふふ。そっか。なんか嬉しいなあ」

「なんですかそれ」

 思わず私もくすりと笑みがこぼれる。
 それはきっと、私も嬉しいから。私から求めたことを肯定してくれたみたいで。
 もっと、私から欲しがっていいのかな。そんな考えが頭をよぎる。

『──これからも今までどおりそばにいてくれたら嬉しいな』

 昨日の夕暮れを思い出す。あの時先輩が私に言ったこと。
 私が変わったことを先輩に知られてはいけない。だから、これ以上はだめだ。

「──雨」

「え?」

 冷静になった頭が、外からの雨音を伝えてきた。しとしとと静かな音。
 窓に目をやると、水滴でぼやけた外の景色が見えた。日の入りが近いことと、その陽すら雨雲が隠しているから、その色はくすんでいた。

「わ。ほんとだ。……残念だけどもう帰らないとかな」

 私にならって外に視線を向けて先輩は口にした。それと一緒に、私の腰に回していた腕が緩められる。
 ──いやだ。まだ離れたくない。もっと一緒にいたい。

「先輩」

 気が付けば、離れかけた先輩の手を掴んでいた。

「侑……?」

 不思議そうな顔で先輩が私に振り向く。
 しまった、と思ったがもう遅い。

「別に、いいですよ。雨、止むまでいて」

「え、本当?」

 目を丸くする先輩。その声には、驚きと、奥のほうに隠れた喜び。そこに疑いの色はない。
 ベッドから上がりかけていた先輩の腰も、またマットレスに沈み込んだ。よかった、とそれに安堵する私がいる。

「でも、そんなこと言われたらもっと甘えちゃうよ?」

「別に、いいんじゃないですか」

 遠慮がちに、だけど期待をこめた声色で先輩が聞いてくる。私はその目をみて答えられなかった。
 だって、顔に出てしまいそうだったから。あくまでそっけなく、前の私をなぞるような口調で答えた。

「侑」

 先輩は愛おしむように私の名を口にすると、そっと私の両肩に手をかけた。そのまま、自然な力でベッドへ押し倒された。いや、寝かされたっていうほうが近いかな。
 ベッドに両手をついて先輩が私を見下ろしている。天井がやけに遠くて、その代わりに先輩の顔がとても近くに感じる。

「侑、今日はすごく優しいね」

「……普通、ですってば」

 優しくなんてない。私は今日、嘘ついてばっかりだ。それでも先輩は嬉しそうに笑って、私を求めてくれることが胸を締め付ける。

「また謙遜して。──でも、そういうところ大好きだよ、侑」

 その痛みを打ち消す感覚が唇に押し付けられる。
 さっきした時よりちょっと濡れているのが気持ちいい。その感覚をかみしめる前に、さらに濡れた粘膜が侵入してきた。

「ん、んぅ……っ、は、ン……」

 ぐちゅ、と粘ついた水音が脳内に響く、それと同時に体の芯まで届く快感。それが、先輩と私の舌が絡み合ったものによることに気づいたのは少ししてからだった。
 一気に流れ込んでくる先輩の感触。さら、と枝垂れる黒髪は、くすぐったいけど心地がいい。唾液に濡れた味覚器官は、蜂蜜みたいに甘く感じる。

「ゆう……っ、ん、ぁむ……ン、ん……っ」

 不意に名を呼ばれ、忘れていた呼吸を再開した。先輩も段々と熱が入ってきたようで、匂いが濃い。周りの空気が香水で満たされているみたいだ。
 頭がぼうっとして、理性が溶かされていく。無意識のうちに、私も先輩に舌を突き出してしまう。餌をねだる子猫のように。

「んぁ……ふ、あ……っ、せん、ぱ……ん、んンっ──!」

 私が伸ばした粘膜はすぐに先輩に絡めとられた。熱と蜜をこれでもかと塗りたくられて、口の中全部が先輩の味で染められる。
 前にも経験した味。だけど、今はすごく美味しくて、私を興奮させる。熱にうなされているような夢心地で、この接吻以外すべてが些末事。
 否応なしに昨日の感情が思い起こされる。体が火照って、どうにかなってしまいそうなあの感覚。

「んは……ぁ──せん、ぱい……」

 その衝動に素直になってしまうギリギリのところで、先輩は唇を離した。
 たらりと半透明の糸が私と先輩を繋いでいる。それがぷつ、と切れて落ちてしまうのがなんとなく悲しかった。

「侑──」

 ぴと、と先輩の手が頬に触れる。先の行為のせいか、少し汗ばんでいる。

「そんな顔、するんだね」

 不思議そうに、でもくすりと笑って先輩は言った。

「え……?」

 先輩の言葉の意味が分からず、気の抜けた返答をしてしまう。
 顔、って──ああ、気持ちよかったからちょっと火照ってるかも。

「とろけた目して──えろい顔になってるよ」

 言われて、ようやく理解した。
 息は荒くなってるし、唇も半開きのまま。火照ってるせいで、多分顔も赤くなってるし。先輩からすれば確かに、えろいのかもしれない。
 いや、逆の立場でもそう思うか。

「先輩、こそ」

 でも、私だけそんな風に言われるのはなんか癪だ。

「はぁはぁって息切らして、興奮してるんじゃないですか」

「だ、だって……侑とキスするの、気持ちいいんだもん」

 私から目を反らして、先輩は頬を染めた。
 さっきまであんなに積極的だったのに、可愛らしい反応。そんなの見せられたら、枷が外れてしまいそうになる。

「七海先輩」

 いや。もう限界だ。気持ちも、キスも溢れるほど与えられて、どうして私だけ我慢しないとダメなんだ。
 でも私から求めることだけはできない。だったら。

「この先──キスよりもっと先のことも、期待してるんじゃないんですか?」

「ゆ、侑──?」

 私の言葉に、先輩の瞳が揺れる。
 私から求めなければいい。だから、その背中を押した。口にした後で、ずるいやり方だな、と自嘲した。

「いい、の? もっとしても」

「別にいいですよ。いつかは先輩から言われるのかもって、思ってましたし」

 何でもないことのように答える。内心では期待しているくせに。
 先輩は私の言葉を聞くと、目をそらして口元を抑えた。にやけているのを隠しているつもりなんだろうけど、バレバレだった。
 そして私もまた、先輩の反応を嬉しいと感じるのを隠すのが大変だった。

「侑、今日はいっぱい甘えさせてくれるんだね」

「それが、私の役目ですから」

 ──少なくとも今は。

「だから、いいですよ。先輩のしたいように、どうぞ」

 そうして、最後の一押しをする。
 先輩は「ありがとう」と静かに口にすると、そっと私の首筋に顔を埋めてきた。

「ん……」

 ちゅ、と甘い感触が落とされる。キスよりもずっとずっと小さな刺激だけど、ここからの時間がさっきとは全く違うものだと告げているようだった。
 先輩の口づけは一度じゃ当然終わらず、二度、三度と繰り返される。まるで私の味を確かめるように。

「侑の肌──白くてすごく綺麗だね」

 二人きりの部屋なのに、内緒話をするように先輩は囁いた。その吐息にぞくりとする。
 先輩の声の奥に秘められた色香。今まで一緒にいて、初めて聞くその声色が私を興奮させる。

「……なら、もっと見ていいですよ。私の、肌」

 緩み始めた枷が、誘惑の言葉を口にさせる。見てほしい、触ってほしい。その気持ちを抑えられない。
 先輩も初めてのことで余裕がないのか、私の言葉に違和感は持っていない。ただ、ごくりと唾を吞んだだけだった。

「じゃ、あ……脱がしちゃうよ」

 たどたどしい言葉遣い。その緊張が私にも伝わってきて、どきどきと心臓を鳴らす。それを悟られないように、こくりと一つ頷いた。
 ちらりと先輩の顔に目をやる。私の胸元に向く先輩の視線。そこへ、おずおずと手が伸びていく。

「…………」

 ぷち、と小さな音。それと同時に、制服の上着が緩む。先輩はそれを、震える手ではだけさせた。
 着ているものはまだたくさん残っている。だけど、全部脱がされたところを想像してしまって、顔が熱くなってしまう。
 そんな私の内心など知らず、次に先輩はスカートに手をかけた。脇の下のファスナーを下ろし、腰のベルトも緩められる。
 でもその手つきはぎこちない。先輩だって毎日のように身にまとっている服なのに。

「侑。その、これ脱がす、から……」

 がちがちになって上手く言葉が出てこないのだろう。でも言わんとするところはわかる。

「はい。これでいいですか?」

 ばんざーい、と両手を上に上げる。

「あ……う、うん、それで大丈夫。ごめん、気遣わせちゃって」

「いいですよ。緊張するのはわかりますから」

 私だって緊張しているんだもん。
 申し訳なさげにしつつも、ありがとう、と先輩は笑った。
 そうして、スカートを下からたくし上げられる。ずるる、と衣擦れの音を立てながら脱がされていく。その音と同じくらい心臓もうるさく騒ぎ立てる。

「ん……」

 掲げた手の先から、私の体温が残ったものが抜き取られた。特に何かあるわけでもなく、あっけなく。
 先輩は脱がしたスカートを無駄に丁寧に畳むと、ベッドの端に置いた。
 これであとはブラウスと下着だけ。あと靴下もか。冬はまだ先とはいえ、さすがにちょっとすーすーする。

「わ……その格好、すごくえっち──」

 私を見下ろしている先輩は、口元を抑えてそう呟いた。

「……なんか変態っぽいんですけど」

「なっ……だ、だってしょうがないじゃない! 今の侑見たら誰だってそう思うって!」

「えー……そんなことないと思いますけど」

 私って別に特段スタイル良くないし。私相手だから変なフィルターがかかっているんじゃないか。

「──じゃあ、先輩も見せてくださいよ」

「へ?」

「先輩も私と同じように脱いでください。そしたら本当にえっちかどうかわかりますから」

 先輩は私の言葉の意味が一瞬わからなかったようで、ちょっと固まった。だがすぐに顔を赤くして動揺し始める。

「なっ、なんでそうなるの!」

「だって見てみないとわからないじゃないですか」

「それは、そうだけど……」

「ていうかそもそも、私だけ脱がされるとか不公平ですよ」

 ちょっと意地悪な言い方をする。でもそれがとどめになった。先輩はこういうのに弱い。

「わ、わかったから──その、あんまり見すぎないでね……」

 はい、と返事をする。
 だけど先輩はすぐには脱ごうとせず、私の上にまたがったまま逡巡している様子だった。合宿の時に裸くらい見ているのにそんなに恥ずかしがることなんて──。
 いや、あるか。今から「そういうこと」するんだって嫌でも意識しちゃうし。
 それでも、やがて先輩は決心したようで自らの制服のホックをつまんだ。そして、私にやったのと同じようにそれを外す。ベージュのそれを脱ぐと、軽く畳んで脇に置く。
 先輩のその一つ一つの動作はとてもゆっくりしている。緊張しているのだからあたりまえだけど、なんか焦らされているみたいだ。
 先輩の顔に目を向けると、一瞬だけ目が合った。けどすぐに外された。
 そうして私を見ないようにしたまま、今度はスカートを脱ぎ始める。ファスナーを下ろして、ベルトを緩める。私もされたし、いつも自分でもしている、なんら珍しくもない動作。
 だけど、それらは初めて見るみたいに私の興味を惹きつける。今まで体験したことのない感覚だった。
 先輩はそんな私の視線を受けつつも、少しずつことを進めていく。拘束がゆるんだ濃紺のスカートを、するするとたくし上げていく。
 太もも、下着、ブラウスと、順番にスカートの下から晒されていく。まるで舞台の幕が上がるよう。
 やがて、ぱさりとそれを脱ぎ終える。はら、と先輩の長い黒髪が重力に従って揺れるのが綺麗だった。

「────」

 そうやって、私と先輩は互いに同じ姿になった。脱いではいるけど、裸でもない中途半場な状態。そのままで向かい合う。
 私は七海先輩のその姿に、少しの間心を奪われた。
 上半身は見慣れたブラウスなのに、下半身は下着一枚だけ。純白のブラウスという真面目で清楚なイメージと、晒されているみずみずしい太もものギャップがどこかいやらしい印象を与える。もじもじと僅かに脚をくねらせていることもそれに拍車をかける。
 だけどなにより煽情的なのはその表情だ。変わらず私から目を反らして、今までにないくらい顔を赤くしている。
 恥じらう様子とは裏腹に、口から漏れ出す興奮の吐息。まるで誘っているみたい。

「ゆ、侑……そんなに見られたら恥ずかしい」

「あっ……す、すみません」

 反射的に目を反らす。だが、もっと見たいを思わせる魅力がある。

「その、確かにえろいですね……その格好」

「そう、だね。……それに結構恥ずかしいし、侑の言ったとおり不公平だったね」

 あはは、と照れを誤魔化すように先輩は笑った。緊張していた私の心も、それで少しだけ楽になれた。

「──続き、するね」

 私の緊張が解れたのを確認すると、先輩はそう告げた。その声色はとても静かで、だけど内側に色香を孕んだものだった。

「……は、い」

 私が頷いたのと同時に、首元のリボンに手をかけられた。しゅる、と滑らかな音とともにそれが解かれる。まるで最後の枷を外すみたいに。
 そうして、今度はブラウスのボタンに先輩の指が触れる。首からひとつずつ、ぷち、ぷち、と細い手指で外されていく。
 だけど先輩は全部は外さず、胸元あたりで中断した。そしてベッドに手をついて私に覆いかぶさると、再び首筋に口づけられた。

「んっ……」

 ちゅ、と羽のように軽いキス。でも何度も繰り返されると、その感覚は容易く快感に変わる。
 そしてその淡い触れ合いは、少しずつ下へと移動していく。首筋から鎖骨、胸元まで。
 その時、くい、とブラウスを軽くはだけられた。ボタンはまだ全部外し切っていないから、私の素肌がすべて晒されることはない。だけど、私の心を少しずつむき出しにされるようでドキドキする。

「侑──ん……」

「ぁ……っ、先、輩──」

 そうして私の胸の麓にキスをしていた先輩だったが、ふと両手を伸ばしてきた。
 そのうちの左手は、だらんとベッドに投げ出していた私の右手をそっと握った。指と指を絡める、恋人繋ぎ。
 そしてもう片方の右手は、まだブラウスに隠されている胸の膨らみへ。

「ん、ぁっ……」

 その感触は本当に些細なもの。揉んだりするわけでもなく、ただ触れただけ。私の存在を確かめるだけのような感覚。
 だけど、私の体はびく、と小さく跳ねた。まるで心まで直接触られたよう。
 私のその反応をどう思ったのか、先輩の口元が僅かに開いた。同時に息を呑む音。
 すると、私の胸に触れている手に僅かな力が籠った。細い先輩の指がずぶ、と肌に沈み込む。

「柔らかい……」

 ぽつりと先輩が呟く。その視線は私の胸に向いたまま。
 そのまま少しずつ手指に力が入っていく。壊れ物を扱うような手つきだったものから、私の肌の味を確かめるような行為へ。

「ん、はぁ……っ、あ、ン……」

 刺激の強さだけで言えば、さっきのキスのほうがずっと強い。だけど、初めてされる行為ということと、明確に性的な意味が籠っているという事実が私の体を敏感にさせる。
 その快感に、私の意志とは無関係に恥ずかしい声が漏れてしまう。下にいる家族にばれないように抑えてはいるけど、目の前の先輩には丸聞こえだ。
 それが先輩の興奮に油を注いでいることもわかっている。いつの間にか先輩の手は遠慮なくぐにゅぐにゅと私の膨らみを揉みしだいている。

「侑……もっと見せて──」

 ぷつ、と小さな音が私の鼓膜を揺らす。気づけば、外していなかったブラウスのボタンが一つずつ解かれていた。
 あっという間に最後まで外され、ゆっくりと前立てを開かれる。素肌と外気が触れ合う感覚。これであとは下着だけ。

「侑──綺麗だよ」

「そんな、こと……。今日あんまり可愛い下着じゃ、ないですし」

 まさかこんなことになるとは思っていなかったから、今日の下着はベージュの地味なやつだ。

「そんなの関係ない。──外しちゃうから」

「あ──先輩……」

 自然な動作で、背中に手を回される。期待からか、私も背中を浮かせてしまう。
 先輩も女の子だから簡単に外された。そして肩紐までも解かれる。あとは、ただどかすだけ。

「あ……」

 漏れたのは私の声か、先輩の声か。
 するり、と私の上体を守っていた最後の布が外された。どきん、と心臓のギアがまた一つ上がる。
 そしてそれを加速させるように、もう一度先輩の手が胸に触れた。だけど今度は両手。
 そのまま優しく揉まれる。むにゅん、と先輩の手にちょうどおさまるくらいの乳房が、その手指に愛撫される。

「ん、っあ……せんぱい、あっ──ん、は……」

 先輩ももう完全にそういう気持ちになったようで、手つきがいやらしい。それに先輩の熱が直接伝わってくるからたまらない。
 先輩の瞳は私をとらえたまま離さない。私が感じて体をくねらせていることも、顔を火照らせてはぁはぁと息を吐いていることも全部見られている。
 恥ずかしい。でも何故か嬉しい。はしたない私のことを受け入れてくれているみたいで。
 それに先輩だって興奮してくれている。愛おしむような目線の中に、情欲がまぎれこんでいる。

「侑、可愛い。──食べちゃいたいくらい」

「先、輩……? あっ……!」

 先輩が妖しげな目で私を見たかと思うと、私の胸へ顔を埋めてきた。そして、胸の頂点の桃色をはむ、と口に含んだ。
 びくんっ、と雷に打たれたみたいに体が反応してしまう。初めて知る感覚だった。先輩の愛撫で敏感になった乳首が、温かく湿った感触に包まれている。
 でも当然それだけで終わるはずもなく、口腔で眠る舌がソレを撫で上げた。

「んっ、あっ……! せん、ぱい──や、あっ……ぁん、んン……っ」

 ぺろぺろと乳首を舐められるたびに体が跳ねる。それにいやらしい声も。
 昨日自分でしたのより何倍も大きな快感。体の奥からぞくぞくと際限なく快楽がわき上がってくるのがわかる。

「ん、ぁむ……ゆう──好き……ん、れろ……」

 先輩は夢中になって私の体を味わっている。右手で片方の膨らみの形を歪めながら、もう片方の乳房は唇と舌での奉仕を続ける。
 そして空いている左手は、私の身体中を撫で回してくる。脇腹、お腹、太ももまで。全身を先輩のしなやかな指の感触に包まれているみたいだ。

「ねぇ、侑──こっちも、いい?」

 さす、と私の内ももを撫でながら先輩が囁く。胸から口を離して、上目遣いで私を見つめている。先輩の口の動きに合わせて顎が乳首と擦れるのがくすぐったい。
 その熱っぽい視線にぞくりとする。その熱に理性が溶かされて、私の淫らな本能がむき出しにされる。

「いい、ですよ」

 その言葉は、驚くほど簡単に口からこぼれ落ちていた。それと一緒に情欲丸出しの吐息までも。
 私の肯定を聞いた先輩は、すぐに手を滑らせた。むき出しの太ももから、未だ外気から隔離された一番大事なところへと。

「ん……っ」

 先輩の指先がそこに触れた瞬間、体に電流が走った。秘部から頭のてっぺんまで一気に。
 キスと愛撫で感度がよくなっていたこともあるけど、何より先輩が触れたという事実が私の体を震わせた。
 当然先輩はそれだけじゃ止まらず、さらに手を動かす。指先を割れ目のところに這わせて、かり、と引っかかれる。

「んん……っ!」

 思わず大きな声をあげそうになり、とっさに片手で口を塞いだ。そんな私を見つめる先輩がくすりと笑う。

「侑、かわいい」

 優しい声色。だけどその中に、どこか嗜虐的な色が混じっているような気がした。
 私のその予感は正しく、先輩の手はつう、と下着の上を滑って腰へ。その動作だけでもぞくぞくとしてしまうけど、先輩はするりと指先を下着の中へ侵入させてきた。
 どくん、と爆発しそうなほど心臓が跳ねる。それを感じ取ったのか、先輩は私にやさしく微笑んだ。
 そして、下腹部に直接触れている先輩の指が下のほうへと降りていく。私の色欲が溢れているであろう場所へ。

「ぁんっ──!」

 くちゅ、という小さな水音。それと同時に私を襲ったのは、今まで感じたことのない快感だった。
 ぎし、というベッドの音と一緒に私の体も跳ねてしまう。手で抑えていたのに、声も結構漏れてしまった。

「濡れてる……興奮してくれてるんだ」

「ん、だって……っ、こんなこと、してるんですから──あっ!」

 言い終わる前に先輩の指で喘がされる。大して力も入れられていない、ただ濡れた場所をなぞられただけなのに。
 自分でも変だって思う。自分で触ったことはなくはないけど、こんなに感じなかった。
 他人に触られること──何より七海先輩に触ってもらえるのがこんなに気持ちいいなんて思わなかった。

「侑の声、かわいい。もっと聞かせて」

「先輩の、へんたい……っ、あ、んンっ、ふぁ──っ」

 私の耳元に顔を寄せて囁く先輩。鼓膜に響く声色と吐息だけで感じてしまう。
 それと一緒にあそこの割れ目をいじられる。すり、すり、と猫を撫でるような優しい手つきだけど、焦らされてるみたいで余計に興奮してしまう。

「ん、ぁ……っ、や、あ……は、ァん──せんぱい、あ……それ、だめ……っ」

 はしたなく体を震わせている私の姿にますます興奮してしまったのか、先輩は私の耳をはむ、と甘噛みしてきた。唐突な刺激に、弓なりに体が反ってしまう。
 耳に感じる先輩の唇の感触と熱い吐息。キスで味わうだけでも気持ちがいいのに、それを耳に直接流し込まれたらたまらない。

「ん、ぁむ──侑、耳弱い?」

「んっ……知り、ません、ぁ、ん……っ、あっ──息、吹きかけないで……っ」

 ふーっ、と先輩の息が送り込まれると、血液と一緒に全身に行き渡ってるんじゃないかと思うくらい体中が熱くなる。しかも一緒にあそこも弄ばれているから余計に気持ちよくなってしまう。
 そのまま先輩は、濡れた場所を優しくいじりながら口を開いた。

「ねぇ、侑……すっごい濡れてるよ。もうとろとろなのにまだ溢れてくる」

「や、だ……言わないでくださ──あぅ、ん……っ、恥ずかしい、です……っ」

 私は必死に声を押し殺しているのに、先輩は愉しそうに口にする。それを癪だとも思いつつも、この状況に幸せを感じているのも事実。

「こんなに濡れてるならさ──指、入っちゃうよね」

「え……せん、ぱ──ひあっ!」

 私が先輩の言葉の意味を理解するより早く、下腹部から強烈な刺激が昇ってきた。それが先輩の指の侵入によるものだということに気づいたのは少し後だった。

「ほら、入っちゃった──あは、ナカぬるぬる……」

 陶酔するような声色で先輩が囁く。その言葉で余計意識してしまって、じゅん、とまた濡れた。
 それを先輩が感じ取ったのかどうかはわからないが、私の中に入れた指をゆっくりと動かし始めた。指先くらいまでの浅い挿入から、ずぶぶ、と奥のほうへと突き入れられる。
 異物が自分の中に入ってくる未知の感覚。でも、細くてすべすべの先輩の指にはまったく不快感がない。あるのは中の粘膜がこすれる快感だけ。

「ぁ、アっ……ん、先輩……っ、や、ん……あ、ゆび、きもちぃ──ぁ、ん、あっ……!」

 くちゅ、くちゅ、と淫らな水音が外からの雨音に混じる。
 その音に合わせてあそこから昇ってくる快感。それは焼けるように熱く、津波のように絶え間なく襲ってくる。傷つけないようにという意思が伝わってくるほど優しく抜き差しをされているだけなのに、おかしくなりそうなほど気持ちいい。
 はぁはぁと熱にうなされたように息が乱れて、それでも足りずに嬌声がこぼれてしまう。それを聞いている先輩もまた、私の耳元で荒い呼吸を繰り返している。

「ん──もう一本、入るかな……」

 独り言のように先輩が呟く。快楽でおかしくなった私の頭は、その意味を理解することすらままならない。
 細い指をすでに受け入れている私の膣口を優しく開いて、もう一本の気持ちいいものが入ってくる。指先が入っただけなのに、さっきの何倍もの快感。それが奥まで突き入れられると、何かが破裂しそうなほど刺激的な感覚だった。

「七海、せん、ぱい──あっ、ぁう、だめ──私、あっ、んン……っ、わたし、こえ、我慢できな、い……っ」

 今までなんとかこらえてきたけど、もう無理だ。こんなに気持ちよくされたら、部屋の外に聞こえるくらいの声を上げてしまう。
 名残惜しいけど、もうやめないと。そんな意味を込めた視線を先輩に送る。
 だけど、先輩はくすりと笑って言った。

「じゃあ、私が塞いでてあげる──ん」

 何か言う前に唇を奪われる。
 快楽で緩んでいたから、舌を差し込まれるのはあっという間だった。そして慣れた舌遣いで私の粘膜を絡めとられる。
 それと同時に、先輩の指も激しくなり始めた。さっきまでは優しく擦るだけだったのに、その動きはとても野性的だ。
 ぐちゅ、ぐちゅ、と音を立てて何度も抜き差しをされる。引き抜かれると泣きそうなほど切なくて、指の付け根まで差し込まれると、もうそれだけで果ててしまいそう。

「ん、んぅ……っ! ななみ、せんぱ──むぅ……っ、ぁ、んちゅ……っ、ん、だめ、あっ……わた、し……んンっ!」

「んむ、っンは──侑、イっちゃいそう? いいよ、侑がイくところ見せて──?」

 情欲の熱と優しさがごちゃ混ぜになった声。それが私の背中を押して、気持ちいいのが奥からぐつぐつと昇ってくる。
 腰が勝手に動いて、先輩の指をイイところに押し当ててしまう。先輩もそれに応えるようにぐりぐりとそこを攻めてくれる。
 頭がちかちかして、どこかへ飛んで行ってしまいそうだ。無意識のうちに、ぎゅ、と先輩の首の後ろに腕を回していた。

「せんぱ、い……っ、ん、ぁ、んっ……イ、く……っ、ん、ぁむ、んン──とーこ、先輩──っ!」

「ん、ぁむっ……は、ぁ……っ、ゆう、大好き──っ!」

 その言葉が最後の一押しだった。がくん、と腰がはねて、熱い感覚が一気に爆発した。
 きゅんきゅんとあそこが反応して、先輩の指を締め付けているのが自分でもわかる。ぞくぞくと背中に快感が走って、お腹の底からは沸騰しそうな感覚が頭のてっぺんまで突き抜けている。

「ん……っ、侑──ん、ゆう……っ、れろ、んちゅ……っ、好き──」

 今まで生きてきた中で一番気持ちがいいひと時。その甘い時間をさらに幸福なものにするように、先輩の舌が愛撫してくれる。
 激しすぎず、かといって浅くもない心地のいいディープキス。頭がぼーっとして、じんじんとした絶頂の快楽にただ身を任せることしかできない。

「ん、は……っ、あ……は──」

 どれくらいそうしていたのか。気づくとあの気持ちいい感覚は引いてしまっていた。
 それと一緒に先輩の唇と舌が離れていく。私の中に入れられていた二本の指も引き抜かれてしまった。

「は、ぁ……先、輩──」

 まだ頭の中は不鮮明なまま。少しの時間をかけて今の状況を把握する。
 雨音と、先輩の荒い吐息。口内は甘い味で満たされていて、あそこには濡れた感触。
 そっか。私、先輩にイかされちゃったんだ。

「侑」

 名前を呼ばれて、声の方へ視線を向ける。焦点の合わない目をなんとか働かせて、目の前にいる先輩と目を合わせた。

「イってる侑、すごくかわいかったよ。──それ見ながら、私もちょっとイっちゃった」

 恥ずかしそうに、けれど心底幸せそうに先輩は言った。
 なんだかそんな先輩が面白くて、ちょっと笑ってしまった。私のこといじめながら勝手に気持ちよくなっちゃうとか、変態って言われても文句言えないよね。
 でもその言葉は飲み込んだ。私だって、今はとても幸せだから。

「侑、好き。大好きだよ」

 私の頬をそっと撫でて先輩は口にした。
 そうしてもう一度キスされる。とてもとても優しい、挨拶のような接吻。
 その口づけで、また少しイった。


「あの、先輩」

 ことが終わって、お互い色々と冷静になったあと。私たちはベッドに二人で横になっていた。
 私は先輩の方を向いているけど、先輩は違った。

「いつまでそっち向いてるんですか」

「いっ、いま顔見られないんだってば!」

 先輩はずっとこの調子だ。恥ずかしくて私の顔を見られないらしい。まあ気持ちはわかるけど。

「どうしてですか」

「だって、だって私、侑にあんな……!」

 わーっ、と一人で勝手に騒いでいる先輩。さぞかし面白そうな顔をしていることだろう。

「まあ確かにいろんなとこ触られて、いろんなこと言われましたけど。『食べちゃいたいくらいかわいい』とか──」

「やめて……恥ずかしくて死にそうになるから」

 消え入りそうな声で懇願されたのでそこでやめることにした。ていうか、私も自分で言っててちょっと恥ずかしいし。
 かといって、このままっていうのも嫌だ。ずっと先輩の黒髪だけを見てるだけとか、さすがに味気ない。

「七海先輩」

「え? あ、ちょ、ちょっと──!」

 待ってても埒が明かないから、先輩の肩をつかんで強引にこっちを向けさせた。ごろん、と先輩の体が転がって、その顔がこちらを向く。

「……真っ赤じゃないですか、先輩」

 先輩の表情は、苺みたいに紅潮していた。している時でさえそんなに赤くなってなかったのに。

「だから見せたくなかったのに……」

 目線を下に落として、いじけるような口調で先輩は言った。私の顔が見られないとかいいながら、本当は自分の顔を見せたくなかっただけみたいだ。

「ていうか侑はなんでそんなに平気なの?」

「別に私だって恥ずかしくないわけじゃないですけど。先輩が過剰に反応しすぎなだけなんじゃないですか?」

「ええー? そうかなぁ」

 納得いかない様子の七海先輩。それはそうだろう。
 きっと、私と先輩は違うから。先輩はさっきまでの行為で自分の気持ちを全部正直に私にぶつけてくれた。好き、大好きと口にして、手や口でもそれを表現してくれた。
 でも私は違う。気持ちを隠しているから。私の全部を見せたわけじゃないから。
 だからきっと、先輩ほど恥ずかしいという気持ちが起こらないのだろう。

「──侑?」

「え?」

 声をかけられて、思考を中断した。

「なにか気に障ること言っちゃった?」

「え、どうしたんですか、急に」

「なんかちょっと考え事してそうな顔だったから」

 狼狽えそうになる自分をすんでのところで抑えた。こういうところ鋭いのはちょっとびっくりする。

「別になんでもありませんよ。さっきまでの先輩を思い出してただけです」

「えっ、ちょっとやめてよ! ホントに恥ずかしいんだからぁ!」

「はいはい、わかってますって」

 また嘘をついた。ずき、という胸の痛みには少しだけ慣れた気がした。
 嘘をつくのはきっと自分のため。先輩はきっと、もう私がいなくても平気だ。だから、「誰も好きにならない小糸侑」の存在は嘘をついてまで保つ必要はない。

「──ね、侑」

 さっきより少しだけ静かな声で名前を呼ばれる。「なんですか」と視線を向けると、先輩は私から目線をずらして続けた。

「雨、止まないね」

 外からはいまだにしとしとという水音が聞こえてくる。心なしか、だんだんと強くなっているような気もする。

「止むまでいていいって、言ったよね」

「はい」

「──このまま止まなかったら、どうしよっか」

 どきん、と心臓が跳ねる。どこか誘惑的な言葉。
 別に、止まなかったら怜ちゃんの車にでも送ってもらえばいい。大して悩むほどのことではない。
 でも私はその答えを言い淀んだ。

「──泊まっていけば、いいんじゃないですか」
 
 そう答えたのは、完全に私のエゴ。
 私は先輩の温もりを知ってしまった。私が望めばそれをもっと感じていられるのなら、手放したくない。

「ほんとに?」

「──ええ。先輩がいいなら」

 先輩は照れくさそうに表情をやわらげて続けた。

「そしたら、さっきみたいなこともっとしたくなっちゃうかもしれないのに?」

「ええ、いいですよ」

 そう答えた私の表情は、少し笑っていたかもしれない。
 さっきみたいなこと、それは私だってしたい。あんなの、一度味わったら我慢なんかできない。
 それに、先輩のあんな淫らな顔を見られるのだから。私しか知らない先輩を。少なくとも今は、それを私だけのものにしておきたい。

「じゃあ、今したい」

 ストレートに気持ちを告げる先輩に、「いいですよ」と背中を押した。
 それからすぐ抱き寄せられて、口づけをされる。柔らかくて熱い、チョコレートのように甘い感触。その唇でまた体の隅々まで愛してくれるんだと思うと、それだけで少し濡れてしまう。

「侑、好きだよ──」

 キスの合間に、受け止め続けたいつもの気持ちを告げられる。幸福感と切なさが同時に与えられる、なんともいえない気持ち。
 私も好きと言えたら痛みは少し消えるのだろうか。
 でも言えない。好きだなんて言えない。体を包むこの温もりを手放したくないのなら、好きという言葉は心の奥底にしまっておかなくちゃいけない。
 胸の内にわいた悲しみをかき消すように、先輩の腰に腕を回す。そうして、きゅ、と抱きついた。
 少なくとも今は、これだけで幸せだから。